お笑い芸人の末路。

私はワイドショーが大嫌いだ。

世の大方の専業主婦が見ているであろうアレのことである。

その中でも一番キライなのが知ったような口で偉そうなことを言うコメンテーターという輩であり、それに同調する司会者共だ。

歌手やら俳優やらがコメンテーターをやっているのを見ると、非常に哀れになる。

「ああ、この人はもうコメンテーター程度の仕事しかないんだな」と。

中でも一番キライなのが、そこそこ売れた芸人がコメンテーターをやる場合である。

ワイド○ショーの筋肉ダルマやひるおびのアル中司会者に媚びるしか能がないクズ共のことだ。

糞どうでもいい芸能人の惚れた腫れたに対してどうでもいいコメントをし、ちょっと笑いをとって一仕事した気になっているお笑い芸人としての矜持を忘れたクズ共。

それでいて上から目線で偉そうに説教を垂れるのだ。

おまえらから学ぶことなど何一つないというのに。

お笑い芸人がお笑いをやらなくなったらお終いだ。

それにしても晩節を汚すお笑い芸人のなんと多いことか。

ワイドショーを見ても有益なことなど一つもない。世の専業主婦はワイドショーに毒されて思考能力すら奪われているのだ。ワイドショーの言うことが全てであり、真実だと思い込んでいる馬鹿共だ。

私はワイドショーなど昔から見ないし、これからも見ない。絶対に。

私がもし男ならワイドショー好きな女と結婚しないし、そもそも家にテレビを置かない。

ワイドショーなど百害あって一利なしだ。

あんな物を見るなら水戸黄門の再放送を見るほうが数段マシである。

 

というわけで、水戸黄門の再放送を熱望する今日このごろである。

タイトルが何も思い浮かばない

 糞味噌な現実と向き合い、生きていくために、人は様々な武器を手にするのだけれど、お金を持っている人と持っていない人では、手にする武器も当然違ってくるものである。

 私は当然のことながらお金なんてないよ派(いらないよ派ではなく、ないよ派である。お間違えのないように)なので、これも当然のことながらお金のかからない武器だけが選択肢にあるのだが、それは創作、鑑賞、妄想といった、実に非生産的なもの(勿論例外はあるが、私の場合はない)が主で、私の場合、その割合は1:3:6くらいである。

 

 まず創作であるが、私には何も生み出す才能がない。こうしてネットの片隅に駄文を生み出すことはできるが、誰の役にも立たず、私自身にもポジティブな結果は何ももたらさない創作活動は、数時間もすれば嫌になり、結果、自己嫌悪と虚無感を更に私の中に積み上げることになる。

 

 次に鑑賞だが、今はアマゾンミュージックとアマゾンプライムビデオ、そしてユーチューブが私の必携アイテムである。

 映画やテレビドラマを見るときは1.25倍速、もしくは1.5倍速で見る。数を多くこなしたいので等速でタラタラと見ている時間はないし、移動シーンや飛ばしても問題ない場所はガンガン飛ばす。そんな鑑賞の仕方で大丈夫か? と思われるだろうが、大丈夫だ、問題ない。名作は1.5倍速で見ても名作である。

 

 音楽はお気に入りの曲を頭が覚えるまで集中して聴く(今は松田聖子の『ハートをRock』を300回くらい聴いている最中。最強のアイドル曲なので是非聴いてみてね)。

 

 最後に妄想であるが、これこそ私の最強の現実逃避アイテムである。

 私の中には小さな町がある。名を黒瓜町という。

 そこには小さいながら様々な人々が生活を営んでおり、他の町と変わらず、夜になれば家々に灯りがともり、やがて眠りにつく。

 しかし、多くの普通の人々にまぎれて、少しだけ変わった人々がいる。私はその人達を『黄昏の住人』と呼んでいる。私もまた、『黄昏の住人』である。

 また、黒瓜町には森があり、明るいうちは遠足やピクニックに最適な穏やかな緑と水に包まれた非常にのどかな場所である。しかし、夜になれば徐々に森はその姿を変える。太陽が沈んでからでなければ行けない場所や、所有者不明の古めかしいロッジ等、年に数名の行方不明者が出る危険な場所になる。

 良いもの、悪いものが等しく存在するのが夜の森なのである。

 黒瓜町についてはこれから少しずつ書いていくるもりである(予定は未定)。

 

 自分の中から糞みたいな現実を追い出し、愛しいもの、愛しい人だけに包まれて生きていければお金なんていらないけれど、ここまでしてやっと私は生きていける。しかし、お金はないし、愛しいもの、愛しい人もいない。でも、なんとか生きていけるのは私の中にまだ少しばかりの希望があるから、なのだろうか。それとも私が絶望的なまでに鈍いからだろうか。

 もし希望がなければ人は生きていけないとするならば、私にはまだ希望があるのだろう。どのような形をとっているのかは知らないが。

 

 クソバカなコロナウイルスとそれを広めたクソバカな国、そして我が国のただひたすらに利権を貪ることしか考えていない政治家と、与党の言うことに尽く反対するしか能のない野党の政治家の所為で、私の人生は幾許かの修正を余儀なくされた。

 今の私の根底には怒りが常にある。それは大きくはないが、消えることなく常に燃え続けている。怒りの炎は身を焦がす、というが、この怒りの炎が消えるときこそ私の命の炎が消えるときではないだろうか。もしかしたら私の中には希望など既になく、怒りだけがあるのではなかろうか。

 私が創作をするのも映画やテレビドラマや音楽を見るのも聴くのも妄想をするのももしかしたらこの怒りの炎を少しでも静めるためなのかもしれない。

 怒りだけでは生きていたくない。しかし、怒らなければ生きていけないのだ。

 BLMなど心底どうでもいい。馬鹿と犯罪者は肌の色に関わらず死ねばいい。

 米国も中国も戦争するなら勝手にしろ。日本や私を巻き込むな。

 怒りの炎が消えることがないのなら、それと上手く付き合って行くほかない。

 

 涙は枯れて、本物の笑顔も浮かべることはできない。

  でも、妄想の中でならそれができる。黒瓜町は私の唯一の居場所であり、魂の置き所である。私が死ねば、黒瓜町も消え去ってしまう。私と同じでこの世界で儚い存在である。でも私はそこへ行く。私の家はそこにある。私の魂はこの世にはとうとう居場所を見付けられなかった。

 

 世間の人々はこんな私を見て哀れに思うだろう。あるいは嘲笑するだろう。

 

 So,What?(それがどうした?)

 

 それが私の答えである。

 

 これは私の遺書ではない。只の駄文である。後で読み返すと、削除したくなるタイプの。

 

 それにしてもタイトルが何も思い浮かばないなぁ。

地図アプリと私の相性について

10月の連休に京都に行ってきたのです。  仕事半分休暇半分の中途半端な感じだったのですが、それでも充分に楽しめました。 私は京都が本当に好きなので、京都の街を歩けるだけで幸せなのです。 北野天満宮前の粟餅屋で粟餅を頂いたあと、百万遍通りまで歩いたのです。 相国寺の前を通りましたし、同志社大学の前を通りました。 京都は普通に歩いていても歴史的建造物に辿り着くのでただ歩いてるだけでも楽しいのが素敵です。 百万遍通りに辿り着くまで二時間ほどかかりましたがなんてことありません。共産党のうざい選挙演説さえなければ完璧な夜でした。 一つ心残りなのは京大見学ができなかったことです。 私は京都に行く度に心残りが増えてるような気がするなあ。

夏の残り香

 私は最近ようやく夏の終りを受け入れることができた。

 9月もあと2日で終わろうというときに何を言っているのだ、と思われるかもしれないが、それほど私は夏が好きで夏が過ぎ去っていくのを惜しんでいたのである。

 たとえば、空を見上げてはあの雲は入道雲っぽいとか、雨上がりの空気が夏っぽいとか、過ぎ去った夏の影を身近に求めていたのである。

 コンビニにタバコを買いに行くと、未だに花火セットを置いている所がある。値段も半額で、レジの前付近に置いてあるのだけれど、もう手に取る人はいない。視線だってチラリとも送りはしない。

 私がお金持ちなら、全国のコンビニから花火セットを買い占めてしまいたいくらいだ。でも生憎、私の財布には(もちろん預金通帳の中にも)、そんなお金はありはしない。家に帰って線香花火の代わりにタバコの灯りを灯すくらいしかできはしない。

 夏にやり残したことが私にはたくさんある。そしてそれは、私が死ぬまで増えることはあっても減ることはないのだ。

愛している

クリスマスイブイブイブの今日、あま り寒くなくて過ごしやすい。 私は相変わらず独りだけれど、街の中がクリスマスの装飾で綺麗に彩られている中を歩いていると幸せな気分になれる。それは悪いことじゃない。 愛している、と唐突に思う。

誰を? 何を?

ある晴れた日曜日の午後にドーナツ食べながら

せいたろー、というのが私の相方の名前である。 せいたろーは黒縁メガネをかけている。 せいたろーは口髭をはやしている。 せいたろーはドーナツショップを経営している。 せいたろーには美人の姪がいる。

そして、これが1番肝心なのだが、せいたろーは私を愛している。

多分。